極め続けるプロフェッショナルシリーズ

極めつづけるこだわりの銘品・人物をご紹介していきます

2. 森 仁志さん

森 仁志さん

1946年 長野県上田市に生まれる
1965年 上田高校卒業
1968年 美術専門出版社 「三彩社」入社
1970年 林栄子と結婚

1973年 パリ訪問、半年間滞在
    カルナックの巨石に魅せられる

1979年 長野県坂城町に大型リトグラフ製作工房
    「森工房」建設

1980年 フランス・カトラン、池田満寿夫、東山
    魁夷、
岡本太郎などの大型リトグラフ制作
2002年 自作の「カルナックシリーズ」制作
2005年 カルナック訪問
2006年 パリとカルナックで個
2014年 67歳で没

フランス・ブルターニュ半島カルナックの
巨石群せられる

 まずこの写真を見てほしい。

 新石器時代、今から6000年から5000年前に建てられた巨石群。フランスのブルターニュ半島のカルナックという町にある巨大遺跡群である。

 この巨石群、高いものは6.5メートル。重さはなんと350トン。この様な巨石が十ないし十一列に2792体並んでいる。一体どうやってこれだけの巨石を新石器時代に建てたのか。

ロクマリアケルの四つに割れた巨石 1973年 森氏撮影

フランス・ブルターニュ半島
カルナック遺跡の巨石群

ブルターニュ半島カルナックで
スケッチ中の森氏

この巨石群に出合い、同じ様な疑問を持ち、魅せられた男が、今回ご紹介する森仁志氏(故人・2014年67歳で没)である。

 森仁志氏がこの巨石群に出合ったのは、27歳の時、パリ滞在中一枚の写真との出合いだった。

 森氏は上田高校を卒業し、上京して絵画研究所に通い、22歳の時、美術専門出版社三彩社に入社し、山本鼎版画集、近代日本の版画等、版画関係書やリトグラフの編集を担当していた。入社して4年目、リトグラフの刷りの技術を修得するため、同郷の画家、彫刻家中村直人氏とパリに半年滞在。

 パリ、ラファイエット通り115番。中庭の奥、螺旋階段を上がった6階のテーブル一つだけの部屋。現代美術に疲れ、パリに疲れて当ても無く不安な時を過ごしていた。その時一枚の写真と出合ったのだ。その一枚の写真は、雪を冠った巨石が並ぶカルナックだった。

 森氏はこの一枚の写真を見た時、「自分がなぜ今ここにいるのか」「自分は一体何者なのか」「自分は何をなすべきなのか」の問いかけに、この巨大な石たちは何らかのヒントを語りかけているのではないかと思った。森氏は翌朝一番の列車でパリを出発。巨石の町ブルターニュに向かった。

 この巨大石の遺跡群との出合いが、その後の森氏の一生を運命づけた。なんと森氏は、帰国後33歳の時、美術出版社「三彩社」を辞め、生まれ故郷上田市に近い、長野県坂城町に世界初の大型リトグラフ工房「森工房」を建設したのである。

次の写真はこの大型リトグラフ工房で刷り上がった、岡本太郎画伯のリトグラフ。

岡本 太郎「黒い太陽」 1980年

岡本 太郎氏
1911~1996

 「黒い太陽」縦104センチ、横176センチの超大型リトグラフ、パリの「日本の現代版画展」出品作だ。森仁志氏が日本で初めての大型リトグラフ創作工房で刷り上げた作品だ。

 この岡本太郎氏の巨大リトグラフはじめ東山魁夷氏の7メートルを越える「涛声」の作品、池田満寿夫氏の「宗達賛歌」は5メートルの作品。これらの巨大リトグラフが森仁志氏の「森工房」で刷り上がったのだ。

 当初プレス機メーカーや関係者など誰からも、「そんな大きなもの刷れるはずないよ」と、一笑に付された大型リトグラフ工房「森工房」を森仁志氏が作ったがために出来上がった作品だ。

大型リトグラフ 創作工房『森工房』を 長野県 坂城町に

 日本では殆ど知られていないカルナックの巨石群に魅せられたことが原点とはいえ、日本において誰もが想像できなかった大型リトグラフの創作工房の建設、更に人生後半は、カルナックの巨石群そのものを描き続ける画家に転向した森仁志とは一体どんな人物であったのだろうか。

 1946年、長野県上田市に生まれ、五人兄弟の四男。父は教師、祖父は歌人。上田高校を卒業し、上京して絵画研究所に通い、一九六八年美術専門出版社「三彩社」に入社。六年間編集者として在職。この間、リトグラフの摺りの技術を習得。7年間の在籍後、33歳の時、生まれ故郷上田市に近い長野県坂城町に世界初大型リトグラフ工房「森工房」を建設。

坂城町「森工房」新築当時の全景

 大型リトグラフ制作工房だが、制作工房を兼ねた美術館そのものだ。建築設計は、隈研吾師匠の原広司氏。

 原氏のこの工房設計コンセプトは「工房は生きている美術館」。制作に携わる画家、刷り師、企画者がある期間共に生活するための住居、工房は三者の表現の舞台の役割。

 建物は、将来様々な建物が付加されて、ひとつの文化の場を形成する拠点となる。と、原氏は建設コンセプトを当時語っていた。真にその予言通り五十年後の今、森氏亡き後、この工房を継いだ栄子夫人と娘佳香さんによる新たな文化・飲食拠点が誕生しようとしている。とは言え、こんな大型リトグラフ制作工房を立ち上げるなんて、当時は狂気の沙汰と思われていた。

 なぜ、森氏はこんな大型リトグラフ制作工房を思い立ったのだろうか。当初の森氏はこんな風に答えた。「どうしてこのような大きなリトをやろうと考えたのですか?」とよく聞かれる。いくつかの理由があるのだが、直接的な発端は1979年、京都・大原在住の小松均画伯の言葉だった。自給自足に近い仙人のような生活をされていた小松画伯は、夜、晩酌の時にしか我々に会ってはくれなかった。暗闇の中、椎茸のほだ木につまずいて、養魚を兼ねた池に危うく落ちそうになりながら、画室の離れの客間に通されたのは、稲刈りも済んだ秋の月のない真っ暗な晩であった。二合ほどの酒が入り、今まで閉じていた口が急にすべり出す。すべり出したら止まらない。先生の話は若い頃から始まり、留まるところを知らない。

 そんな中で「森君、畳一枚ほどのリトはできないかね?」と問われて、はたと思った。

 小松画伯の12号程度の作品数点の刷りを依頼されていた。その夜は、その校正刷を肴に酒をいただきながらのことだった。それは大作主義の画伯からの、ライフワークである「最上川」のリト化の打診だった。わが工房にも、どこの工房にも、そんな大きなプレス機もなければ版もない。その時は即座に「無理ですね」とお断りしたものの、画伯の言葉が頭から離れなかった。

「前代未聞の大版画!」う~んと考え込んでしまったが、同時にこれは実現したら面白い、と夢が次々に芽生えてきた。どうやって刷ればよいのだろう。出来ないことはないだろう。

 夜毎そんな思いが浮かんでは消えていった。まだ誰もやってみたこともない大版画になんとか挑戦してみようと考え始めた。そしてもしこれが実現できれば、今までの版画のイメージも大きく変わるだろう。やってみるに十分値することだと思った。これが森が大型リトグラフ工房建設の動機だ。こうして出来上がった大型リトグラフ工房には、国内外から注目を浴び、注文が舞い込んだ。

森工房のオープニング・パーティー

東山魁夷「山嶺湧雲」1998年 校正刷りの検討

 国内では三栖右嗣、東山魁夷、池田満寿夫、大沢昌助、竹田鎮三郎、菅井汲、関根伸夫、島田章三、智内元助、田窪恭治。海外からもベルナール・カトラン、アンドレ・ブラジリエ、ジャン=ピエール・カシニョール等一流の版画家の作品が画家共々工房に訪れた。設計の原氏が予言した通り、工房は三者の表現の舞台となっていた。

ベルナール・カトラン氏
1919~2004

油絵具で着彩するカトラン氏

リトグラフ制作のために
フランスから訪れたカトラン夫妻一行との食事風景

 工房を起こして20年、リトグラフに刷りげた作家は80人を越えた。大型のリトグラフ40件、大小合わせて80点だ。それらの大型版画40点は全て上田市の美術館に寄贈されている。

 1999年には「大版画=森工房20年史」がパリのメゾンヌーヴ&ラローズアートより国際出版された。

 忙殺される森の肉体は疲労が始まっていた。そして2000年秋、森は他人のリトグラフを刷るのでなく、自作のリトグラフに着手した。描く対象は、ブルターニュ半島カルナックの巨石群。27歳の時「これこそ人間の創造の原点ではないか」と。巨石が語ってくれたあの感動、あの息吹を自分がリトグラフを通して表現する。生来の森のチャレンジ精神。再び火がともり、再びカルナックに向かったのである。

 朝、暗闇の中を巨石群に向かう。漆黒の中、巨石のシルエットが見えてくる。不思議な空間だ。暗闇の中の黒いシルエット。距離感もなく、存在感も無い。が生き生きと鼓動している。やがて東の空が赤身を帯びてくる。鳥の声がする。

雲が動いていく。真っ赤に染まった空に巨石の黒々としたシルエットが浮かんでくる。教会の鐘が鳴り響く。鳥が飛ぶ。雲が流れる。夜が明ける。巨石がはっきりと見えてくる。張り詰めた気持が緩んでいく。興奮が徐々に冷めて、朝日を受けて長い影を落とす列石郡。同じ姿はひとつと無い。おのおのが何か話し掛けているようだ。畑の中に立った巨大なメニール。群から離れてなぜ一人で立っている?

 水溜りに映ったメニール。空と巨石と鏡。虚像と実像、反転の厳しい構図。細長い奴。丸い奴。でかい奴。小さい奴。変な格好の奴。巨石を巡って原野を歩いていると、つい石に話し掛けたくなる。海辺に立つ一本のメニール。潮風を受けて刻まれたひび割れが、更に深くなりそうだ。鈍い午後の陽射しが少しずつ弱まっていく。海風が枯れ草を鳴らす。やがて冷たい夕闇に沈んでいく巨石群。夜には列石が歩き始めるという。深い闇に包まれて何も見えないメニール…。

 2000年に自作のリトグラフに着手し、「カルナック冬の旅」シリーズ30部手刷りのリトグラフ61点。20部摺りのリトグラフ15点。月光を完成させた。自作のリトグラフはすべてカルナックの巨石群。美術評論家の林紀一郎は「画家の人生で絵画のテーマを一つに絞って描き続けた画家は、森仁志氏の他私は知らない」と語る。森氏にとって、カルナックの巨石群以外は何を描く必要があろう。

石の記憶 2006年 120P

 まさに、カルナックの巨石群に魅了。世に無かった大型リトグラフ制作工房を創り、再びカルナックの巨石群と相まみえた森仁志氏は、なんと67歳で生涯を終えてしまった。

 ブルターニュ半島カルナックの地へ不帰の人として旅立った。

 この森仁志氏の作品美術館がなんと坂城町、上信越高速道坂城インターの近くにあり、後継の妻・子がその遺志を引き継ぎ、この地にブドウ「シャルドネ」を栽培し、ワイン&カフェの新たな舞台創造を今企画している。

 完成が待ち遠しい。                  (敬称略)

シャルドネの成長を楽しむ
娘さんの佳香さん

1. グリーン・ハーモニック 代表取締役 原田信治さん

会社部下板バサミウツになり退社
この病気感謝人生スタート
受けた人へのお返し顧客への恩送りになり三合の心を生んだ。
神様見捨てなかった。

原田 信治さん
1968年 長野市鶴賀七瀬に生まれる
1984年 長野市立篠ノ井西中学校卒業
1987年 長野県立更級農業高校卒業
1987年 千曲市食品会社入社
1991年 長野半導体加工会社に転職
2012年 独立 「スギエコライフ」設立
2018年 (株)グリーン・ハーモニックに社名変更

極め続けるプロフェッショナル

 以前こんなことが言われていた。身のまわりに「お医者さん」と「弁護士さん」がいれば安泰だと。
 しかし今は、大げさでなく、暮らしていく中で、様々なチョットしたお困り事を解決してくれる人が身近にいれば、暮らしは更に快適だ。
 こんなケースがある。長年愛用してきたステレオデッキが古くなって、モータ―が壊れたようで、CDの出し入れがうまくいかなくなってしまった。寿命とは思いつつできれば部品交換か何かで修理してでも使いたい。藁をもつかむ思いで買った大型店に持って行った。応対した店員あっさり「型番が古く部品もないから、修理は無理です。」買い換えを覚悟した。念のため「なんでもかんでも長野」の原田に相談した。
 さっと駆けつけてくれ、この手の修理できる人が身近にいる。修理できるかどうか相談してみます。と言って壊れたデッキを持ち帰ってくれた。
 数日後「買い換えず、修理ができそうですよ」と報告を受けた。「ありがたい。」お金に関係なく「モッタイナイ精神」でこのデッキが使え続けられることが嬉しい。
 時代はSDGsなのだ。二週間後修理されたデッキが戻ってきた。修理代はなんと数万円程度。なんでこんなに格安でやってくれるのか。

恩送り

実は原田、こうしたサービス提供できるまでには、紆余曲折の人生を歩んできた。特に最大のピンチは、会社に期待され、管理職に就任。期待に応えたい一心で、部下の不甲斐なさに発破をかけ、逆効果で部下とのジレンマに陥り、ストレス充満していた時、家も新築。会社側の期待と借金の重荷で遂に精神科医へ。一年半ほどの休職の後、退職。
 心機一転し、新たな商売自営を覚悟。住宅を建てた会社の社長に網戸の張替え、壊れた電気器具の交換、レンジ、換気扇の清掃等の事業をやりたいと相談。その社長の物心両面の応援があって、今の様なイキイキした活動が再開できた。
 立ち直らせてくれた社長へ恩返しをしたい。その社長、気持ちだけ受け取る人。ならその人への恩返しのつもりで、お客様にご奉仕する。まさに「恩送り」が原田の真骨頂。だからお客様に喜ばれ、今や次々と新しいビジネス組み立てが舞い込む。
 こんな原田はどんな人生行路を辿って来たのだろうか。

父の商売の血を引き継いだのかも知れない

 原田は一九六八年(昭和四十五年)五月七日長野市鶴賀七瀬で生まれた。現在五十三歳。
 祖父が北石堂で魚屋・乾物・食品店を営業していた。当時はスーパー勃興前で祖父の元気のいい声と街中という好立地が幸いし、お店は繁盛。原田は母親におんぶされ、母がおじいさんと一緒に働いていたことを何となく覚えている。この血が今の原田の愛嬌の良さにつながっていることは、紛れもない事実だ。小学4年生の時、一家は現在の住まいの篠ノ井に引っ越した。篠ノ井西中学校を卒業した原田は近くの更級農業高校に進学する。高校卒業後は当時の多くの学生同様、さほど明確な意思を持って就職した訳でなく、進路担当の先生任せ。
 千曲市にリンゴジュースやジャム製造会社で、面白い会社がある「ここどうだ」で決まった。
 入社して三年半、高校の時野球部に所属し、その肉体からキャッチャーを担ったが、その頑強な体が幹部の目に止まり、新人ながらジャム製造の重要な仕事を任され、三年目には釜長として抜擢もされた。
 しかし如何せん、明けても暮れてもラインの前に立っての単純作業の連続。原田にとっては「オモシロクも何ともなかった。」辞めたかったが、先輩の「やりたいことが見つかるまで辞めるな。」辞める時が来たら絶対俺が辞めさせてやる。の言葉を胸に、三年半頑張った。そしてついにその時が来た。
「お前へは祖父の血を引いている。物を売る技術を持てば、食いっぱぐれはない」という叔父の言葉にも勇気づけられ、会社を辞める。
 決意が決まり、新聞広告に掲載されていた菓子卸会社の面接試験に臨んだ。
 「先方の女社長は気に入ってくれ、即採用決定。出勤日も決め、出勤したその日だ。別室に通され、嫌な予感通り「採用は無かったことにしてくれ。辞めると言っていた人が辞めないのだ。」「そんなこと言われても。自分はもう前の会社に戻れない。辞めてしまったのだ。」
 二ヶ月分を手当てしてもらい、再就職リセット。人生何が起こるかわからない。

 職安に通い詰めた。いい会社が見つかった。電子素材を製造販売する会社で「丁度、あんたの様な人材を求めていた。」ということで採用決定。
 以来、社長に気に入られ、社長室に所属し、新規事業が好きな社長の新規事業を任された。
「フリーペーパーの発行・PHS(簡易携帯電話)の販売、アルカリイオン水の販売、独身の身もあって、次々に社長が仕掛ける新規事業に挑戦する楽しい九年を過ごした。しかし如何せん給料が安く、所帯を持てない。海外にも一度は言ってみたい。エチオピアの植林活動に二週間休憩をとって行ってみたいと社長に申し出した。「二週間は無理だ」の社長の言葉に退社を決意。

エチオピアでの植林で学んだこと

 会社を辞め、エチオピアでの植林ボランティアに参加した。エチオピア空港に降り立った時、まず飛び込んできたのは「悪臭だ」。吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。このトイレがまた悲惨だった。トイレの体をなしていない。空港での悪臭はこうしたトイレの不衛生の積み重なった臭いだった。日本は如何に恵まれているか、その清潔な環境を当たり前としか受け止めていなかった自分に、エチオピア空港は一撃を喰わしたに違いない。当たり前が当たり前でないことにエチオピアの植林活動は気付かせてくれた。同時にエチオピアの子ども達の目の輝きに「物の豊かさ」が、人間のすべてではない。希望を持つ。砂漠地帯に一本のポプラを植えることが、将来の森を作る。鳥が飛び交い、動物がすむ。その世界を作る。
 そのための植林活動。小さい子どもにとって、その夢に向かっていることが、目の輝きに現れているに違いない。
 希望を持つことの方が、人間を活き活きさせるに、いかに大事なことか、原田の将来に大きな影響を叩き込んだエチオピア体験だった。
 カルチャーショックを胸に帰国した原田は、第三の職業の道につくのである。

偉くなることが人間の目的ではない

 帰国した原田は、長野の燃料会社に再々就職する。ジャム製造会社のメーカー経験、電子基板の製造営業経験、更に広告、通信、水といった時代の花形職業を経験した原田は、あっという間に出世階段を駆け上がった。
 好事魔多し。出世と反比例して、原田の精神は病んでいく。会社と部下の中間管理者としての葛藤の中で、尽に原田自身が「出社拒否症」に。
 中間管理者として会社に期待され、その意を受けて、部下(圧倒的に年配者の多い部下)に命令、指示を出すが、部下は言う事を聞かない。何度同じことを言っても理解せず、反抗的な態度をとる。朝起きて、会社に出社しようとするが「今日も又部下と言い争いか」と思うと、足が前に進まない。
 上司(原田)の無断欠席が続いた営業所。成績はみるみる下降。精神科医の門を叩くのに時間を要しなかった。
 家を建てた借金、部下が言うことを聞かないストレス。会社からは数字が上がらないことへの叱責。精神科医に行っても改善されない。奥さんの助言もあり、原田は退社を決意。
 不思議なものだ。会社を辞めたトタン、あのストレスは何だったのか。ウツの状態が改善されていったのだ。そして原田は大事なことに気付く。病気は自分の謙虚さや至らなさから起きたもので、感謝が大事なことだと教えたのだ。病気をきっかけに人のためになる、喜ばれる商売を始めることを決意。自分の世話好きな性格を考え「便利屋さん」を始めることを考えた。
 この時相談に乗ってくれ、物心共に支えてくれたのが、住宅会社の社長だった。この社長とは原田が燃料会社時代、営業に難行していた時、神のお告げで当時上田のアパートに住んでいた原田に「北へ行きなさい。さすれば素晴らしい人に出会えるでしょう」とのお告げがキッカケでのご縁だった。原田はすぐに行動を起こし、北に向かった。北信の住宅展示場にいたA社長と意気投合し、アパートから長野の実家にA社長の考案した工法で家を建てた。
 原田が自分の会社で家を建て、いい生活をしていると思っていたA社長は「原田がウツになり、住宅ローン返済もままならない状態でいたことを知り、原田の新たな商売の便利屋さん的な仕事を、応援してやろう。A社長の全面的な支援の元、個人事業からグリーンハーモニックという法人組織を立ち上げた。それは今「なんでもかんでも長野」として、YAMADA電機グループの「コスモスベリーズ」と提携。地域の「ローカルプラットホーム」としてYAMADA電機の「家電」のみならず、ヤマダホームの顧客に対するあらゆるメンテナンスに取り組める各業務を連携し、お客様のどんな「ご要望」にも応えられる体制を整えた。
 原田の人生行路は五〇歳までこの様な多難な歩みをしてきた。しかし、その歩みによって今、原田の社訓となっている三合の心に見事に結実している。

 三合の心 ① 助け合う心  
      ② 譲り合う心  

      ③ 励まし合う心 

 その奥に「感謝」がある。サービスを極めるプロフェショナル、グリーン・ハーモニック 原田信治の、そして原田が「なんでもかんでも長野」の事務局として、地元企業のまとめ役として、全国から注目されるこれからの動きに注目したい。  (敬称略)

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